独り言 備忘録

独り言です。気が向いた時に更新します。

もらってばかり

 

●「自己肯定感」という言葉を耳にした。広く世間に知られるようになってから時間も経っただろう。

 

自己肯定感とは、

「ありのままの自分を、かけがえのない存在として、好意的・肯定的に受け止める感覚」

参照:日経DUAL

であるという。

褒められることによって高まりやすく、批判されることによって低下しやすい。

これが低くなると行動力が失われ、自分を批判し否定的になる、というスパイラルに陥る。何とは言わないが、誹謗中傷はやはり良くない。

 

かくいう私も自分に対して自信がなく、人に顔を見られるのが嫌いで、自己肯定感が低い

 

 

と思っていた。

実は自己肯定感はそこまで低くないらしい。ビジュアルに対してはかなり自己肯定感が低いが、自分に対して自信がない、とは言い切れないことがわかった。

 

昔から私は褒められることが好きだった。

「褒められる=認められる」と思っていた。これは自己肯定感が低いから褒められたかったのではなく、ただ承認欲求が強かっただけだろう。

以前の私にその違いはよくわかっていなかった。恥ずかしい話だ。

 

それでも、今も褒められて嬉しいという感覚は変わらない。

それもこれも、私のことを認め、褒めてくれる人達のおかげである。感謝しても、しすぎるということはない。

 

一方、自己肯定感が低くなってしまった場合、他人から褒められても謙遜することが多く、ましてや自分からその長所を否定してしまうようである。

最たる例は、「私のことを褒めるなんてどうかしてる。」である。

私は褒められると謙遜こそするが、心の中では歓喜し、きっとお礼を言うだろう。

ここが根本として違っているようである。

 

 

●さて、私は周りに「褒めること」を求めておいて、結果ひとり満たされておいて、褒めてくれた人に何かしてこれただろうか。

 

少なくとも相手を褒めることをしてこなかった。褒める語彙を見つけるのが下手で、言葉にしてこなかったのだ。

負けず嫌いの私は、褒める=他人を認めること=自らの負けを認めること、と認識していた。

 

他人の能力に嫉妬した。

 

相手の魅力、能力が自分よりもあることがわかっていても、認められなかった。

 

そのため、自分は貰うだけ貰って、何もあげてこなかったのだ。

 

私に自己肯定感を与えてくれた人間の自己肯定感を下げ、自分だけ満たされていたとは、なんたる失態であろうか。

 

褒めるにしろ感謝にしろ、言葉にしなければ伝わらない。

もし将来上に立つ人間になるならば、他人を認め、褒めることができなければ、いいリーダーにはならないだろう。

今のうちに気付けたのだから、意識して自分を変えていかなければならない。

 

何をすればいいかは分かっていないが、

きっとうまくいく。

 

...ちなみにだが、自己肯定感を最大限に高めるものは、根拠のない自信である。