独り言 備忘録

独り言です。気が向いた時に更新します。

ある一日

●前菜

2021年のゴールデンウィークは残念ながら雨の日が続いた。仙台については雹が降った。天気はめちゃくちゃである。

 

そんな中、5月4日は晴れた。これは絶好のお出かけ日和である。快晴!とまでは言えなかったが、雨の気配はない。すっきりとした気分だ。

 

公園には多くの人集まっている。

目の前の混雑と比べればなんと空が広いことか。際立つ。

 

...あとの予定が押していたため、あまり長く滞在はできなかったが、空を見ていると雑多なストレスからは解放された。

とくに何かで遊ぶわけでもない。ただ公園を歩いて回る。花壇は綺麗に整えられていた。ありふれた表現だが絨毯のように広がっている。

風が心地いい。日頃のしがらみを全て吹き飛ばしてくれたようだ。

 

●メインディッシュ

さあ以降の予定である。お祝いの席を設けた。

今日は記念すべき日だ。

 

もちろん、私と祝われるべき人の2人での席だ。

これ以上人数を増やすと感染防止の観点から怪しくなってしまう。

 

???「高級フレンチに行くことになったよ」

なお今回はコースではない。アラカルトである。

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(これは250gのステーキ)

 

リーズナブルな料理で、お値段の割に質がいい。

なかなか種類が豊富で選ぶことも楽しい。そして

おしゃれな料理に舌鼓を打つ。

めったに外食できないご時世だ。最近仕事後には

できあいのものを食べることも少なくない。

とくべつな日であるということを噛み締めつつ、

うまい、と、つい心の声が漏れてしまう。

 

非常に良い時間だった。お祝いのケーキは家に帰ってから堪能した。

とても良い休日であった。

幕開け

●異動

社会人には異動がつきものであるが、私自身初の異動から早いものでひと月が過ぎた。

 

仕事に慣れる、環境に慣れる。

異動を機に引っ越しもしたわけだが、一度に大きく環境が変わると慣れるのにも時間がかかる。

調子のいい日、悪い日を繰り返しながら毎日一歩ずつ進んでいる。時には後退することもあるだろうが、代わりはいない。

まぁ、私の代わりはいないが、私の仕事を代わってくれる人はそれなりにいるものだ。

 

果たして馴染めているだろうか。

まだ上司や先輩方、あるいは現場から異動してきた転入同期との距離感が掴めないでいるが、会話はそれなりに弾むようになってきた。

 

●メモ

・まず大事なのはホウレンソウ。よく言われることだが、これが基本。連携しておいて損することはない。

・電話は出れば慣れる。これもよく言われることだが、何回も出てれば怖くなくなる。わからなければ用件を聞いてとりあえず切る。このとき、できる限り詳細に聞いておく。解決してから折り返す。ただし、折り返しはなるべく早くおこなうべき。

Excelはできた方が得。そして、マウスを触る回数を減らせれば、それだけ効率化される。

 

●本編

この一ヶ月、昨年度に比べればよっぽど社員らしく働いているが、まだ守られている。そろそろ一歩二歩先へと駆け出していきたい。

 

まるでチュートリアルが終わったかのようだ。

責任が少しずつ牙を剥いてくる。タスクを倒しつつ経験値を積んでいく。さて次の武器はなににしようか。

よわい

まだ弱冠であるが、明らかに若さを失ってきている。

 

たとえば、胃が弱くなった、運動のキレが悪い、疲れるのが早い、など、弱っている部分が少しずつ見えてくれば以前の自分との違いを自覚することになるだろう。

 

私はまだ食は細くなっていないが、好きだった唐揚げをはじめ油が多い料理は耐えきれなくなってきている。

運動もそれなりにできているが、流石に運動部にいた高校生のときほどのキレはもうない。

 

そして何より、最近 物覚えが悪い。

以前から薄々感じていたことであるが、知識の吸収力が落ちている。本を、参考書を数回読めば確実に自分の知識としてくれた私の脳はどこに行ってしまったのか。

 

いや、どこにもいっていない。

私の脳はおそらく容量オーバーである。あるいは劣化したスポンジのように、水を吸う力が残されていない。スカスカである。仮に今あるものを絞り出して新たに吸収しようとしても、以前ほどの吸収力は発揮されないだろう。

たとえばオーディンのように片目を犠牲にしてミーミルが治める知識の泉に私のスポンジをつけても、犠牲に見合うものは得られないかもしれない。

 

 

大学を卒業してからなんとなく資格の勉強をしているが、最近は自分の覚えの悪さに腹が立ってくる。

それでも人生の大先輩方からは「まだ若いから」と言われる毎日だ。

 

掛詞とも取れる「よわい」という単語、少なからず相関関係がありそうだ。

つまるところ、これからまだ劣化していくということか。自明ではあるが、受け入れ難い事実である。

うつろい

●11月の半ばも過ぎたというのに日中の気温が20℃に届く。そうかと思えば、最高気温が2桁を割りそうになる。ただでさえ体調管理が大切なこのご時世に、体調を崩しやすそうな気温変化というのはやめてほしいものだ。

 

秋なのか冬なのか分からない気候が続いている。

 

ただ、この三連休で気づいたが、紅葉は確実に散ってきている。散らずに残っている部分も少なからずあるが、見上げるよりも足元を見た方が紅葉は多く確認できる。やはりもう秋ではなく冬に近づいていると景色が教えてくれているようだ。

 

 

そして、この三連休が年内最後の三連休であった。これから年末へ向けて進んでいくわけだ。

 

とはいえ、年末へ向けてしっかり働いたとしても、待っているのは自粛である。

ちょうどGoToキャンペーンの範囲から札幌や大阪が一時的に除外されるというニュースも届いたところだ。

GoToイートも怪しい。忘年会、新年会といったイベントが大々的に開催されることはないだろう。会社の飲み会が億劫だという人にとってはきっと朗報かもしれない。ただ、友人との飲み会の機会が減るのはいただけない。社会人の楽しみの一つだ。

ただ実際、自粛ムードというのはとうの昔の話で、少人数グループでの飲み会をはじめ、会食はいくらか開催されているようだ。宮城県では自民党の県議達が会食し、そこでクラスターが発生した。10人を超える酒の席だということからも自粛ムードなど存在しないということが窺える。

率先して自粛を促すべき人たちが一体何をやっているのやら。

 

・・・さあ、まもなく11月も終わる。いよいよ冬が目の前まで迫ってきている。これからさらに気温も下がりますます冷え込むだろう。

温まるのは懐くらいだろうか。自粛によってしっかり宴会が減れば、の話であるが。

もらってばかり

 

●「自己肯定感」という言葉を耳にした。広く世間に知られるようになってから時間も経っただろう。

 

自己肯定感とは、

「ありのままの自分を、かけがえのない存在として、好意的・肯定的に受け止める感覚」

参照:日経DUAL

であるという。

褒められることによって高まりやすく、批判されることによって低下しやすい。

これが低くなると行動力が失われ、自分を批判し否定的になる、というスパイラルに陥る。何とは言わないが、誹謗中傷はやはり良くない。

 

かくいう私も自分に対して自信がなく、人に顔を見られるのが嫌いで、自己肯定感が低い

 

 

と思っていた。

実は自己肯定感はそこまで低くないらしい。ビジュアルに対してはかなり自己肯定感が低いが、自分に対して自信がない、とは言い切れないことがわかった。

 

昔から私は褒められることが好きだった。

「褒められる=認められる」と思っていた。これは自己肯定感が低いから褒められたかったのではなく、ただ承認欲求が強かっただけだろう。

以前の私にその違いはよくわかっていなかった。恥ずかしい話だ。

 

それでも、今も褒められて嬉しいという感覚は変わらない。

それもこれも、私のことを認め、褒めてくれる人達のおかげである。感謝しても、しすぎるということはない。

 

一方、自己肯定感が低くなってしまった場合、他人から褒められても謙遜することが多く、ましてや自分からその長所を否定してしまうようである。

最たる例は、「私のことを褒めるなんてどうかしてる。」である。

私は褒められると謙遜こそするが、心の中では歓喜し、きっとお礼を言うだろう。

ここが根本として違っているようである。

 

 

●さて、私は周りに「褒めること」を求めておいて、結果ひとり満たされておいて、褒めてくれた人に何かしてこれただろうか。

 

少なくとも相手を褒めることをしてこなかった。褒める語彙を見つけるのが下手で、言葉にしてこなかったのだ。

負けず嫌いの私は、褒める=他人を認めること=自らの負けを認めること、と認識していた。

 

他人の能力に嫉妬した。

 

相手の魅力、能力が自分よりもあることがわかっていても、認められなかった。

 

そのため、自分は貰うだけ貰って、何もあげてこなかったのだ。

 

私に自己肯定感を与えてくれた人間の自己肯定感を下げ、自分だけ満たされていたとは、なんたる失態であろうか。

 

褒めるにしろ感謝にしろ、言葉にしなければ伝わらない。

もし将来上に立つ人間になるならば、他人を認め、褒めることができなければ、いいリーダーにはならないだろう。

今のうちに気付けたのだから、意識して自分を変えていかなければならない。

 

何をすればいいかは分かっていないが、

きっとうまくいく。

 

...ちなみにだが、自己肯定感を最大限に高めるものは、根拠のない自信である。

 

干ばつ

目まぐるしく変わる情勢のなかで、私の生活には変化が少なくなった。

 

1月、2月こそ変化の少ない情勢に激怒し、「早く手を打て」と思いながらSNSを通じて情報を集めようとしていた。未知というものは恐ろしい。ひとつでも自分にとって有益な情報はないか、新しい情報はないか、と精力的だった。

 

危機感が私を駆り立てた。

 

生活における感情は、何かを考えるきっかけになる。それがアイデアを生む。起伏があるのは常だ。より強い感情は、より強い行動につながる。

 

時間が経つにつれてわかってくる情報が増え、具体的な対策が取られ始めてきた。私が既に調べた内容に近いことが連日ニュースで報道される。人々を煽る。私が感じていた危機感は、世間の人々と共通のものとなった。

 

政治に興味を持ち、得体の知れないものについて調べ、自分の言葉として消化し、自分の意見を持つ。

 

この生産的な流れが、今の私の中で細くなっている。

これは「自粛疲れ」と言いあらわせそうだ。自粛に疲れて外に出た、という意味で使われがちなこの言葉だが、これは自粛に飽きただけできっと疲れていない。本当に疲れていれば何も手につかず、何もしなくなる。

 

何もしない、やる気がない。

感情を表す言葉が少しずつ使われなくなっていく。

 

だんだん、だんだんと細くなり枯れていく。

干上がってしまうのも時間の問題だ。

 

 

枯れた語彙は、感情は、

1人の力では取り戻せない。

 

会話によって言葉を浴びて乾いた心に潤いを取り戻せる日はいつくるだろうか。

 

さぁ、季節は梅雨だ。

 

GW延長戦

私のGWは延長戦があり、木・金と休みだった。それを終えて久々の出勤から早一週間。鈍っていた体には酷な一週間だったが、社会人としての自覚を取り戻すのに必要な時間であった。

 

1人のサラリーマンとして出勤し、社会の一部として仕事をしているはずである。

 

しかし、その一方でいまだに社会人なのかどうか実感が湧かない。定期的に出社しているが、結局メインになるのは在宅勤務である。9時までにパソコンを立ち上げ、配布された資料を元に勉強を続ける。自律的に研修するという現状は、大学生の時よりはいくらか真面目である。しかし、高校生の時の方がもっと真面目だったことを加味すればなんとも中途半端な気分になる。

おそらく生活サイクルの根底が学生の時から変わっていない。

 

自立し自律していかなければならないのはわかっているのだが、気の緩み、あるいは娯楽の誘惑に負け、反省しながら一歩ずつ進んでいる。